ねこのごろごろ

おさかなねこです。

ただそばにいる

何もしない。ただそばにいる。
それができるひとは、きっと少ない。

健やかなるときを一緒に過ごせるひとは大勢いるだろう。楽しいこと笑いあうこと素敵なきらきらしたこと。たぶんいまこの文章を書いているカフェのなかでもそういう相手は見つけられる。どれだけ強く長期記憶に刻みつくかは、相手次第だけどね。

でも、病めるときを共に過ごせる存在はうんと少ないんだ。
これは努力次第なのか相性なのか天性のものなのか。そもそもが難しい。いつ、どんなことで、どれくらい病めるときを過ごすことになるかなんて、ひとによって異なりすぎて。「なにかをしてあげなくては」。治療の手立てを持っていたなら、でもその治療が効かなかったら?他の手立ては?効かない?あなたを救えるのはどんなものなの。そもそもソレはあなたにとってはそんなに耐えられないもの、抱えきれないものだった?どうにかできなかった?ねえ、私がどこまでどうすればあなたは笑ってくれるの?その笑顔はどうしてそんなにぼろぼろなの。泣き顔も無理した笑顔もみたくないよ。これさ、いつまで、いつまで続くの。これくらいのことで。そんなこと。こんなこと。私どこまでなにを頑張ればいいの?


ねえ、くるしいよ。
ねえ、私は一体、なんのためにあなたのそばにいるの。


「私はなにもしてあげられない」「私にはあなたを救えない」。圧倒的無力感を突き出される。いつのまにか自らの内で膨れあがる重圧に耐えきれずに立ち去る。それはもうどうしようもないことで。


ただそばにいる。
何もせず何も言わずにただそばにいるということが、どれほど困難なことか。
病室のドアは、静かに重い。


だから。
だからただ私のそばにいてくれた、それがほんの僅かな時間だったとしても、もう今はそばにいないとしても、私の心をただ見守ってくれたあなたたちに、私は「ありがとう」と言い続ける。もう直接言うことができないとしても。私があなたたち自体を思い出すことがなくなったとしても。

それでもずっと私は、あなたたちを忘れない。

 


私はあなたたちに救われました。
あのとき、そばにいてくれてありがとう。

そして、ただそばにいてくれるあなたたちに、ありがとう。

 

2018年6月最後の夜、新宿駅西口のルノワールにて。