ねこのごろごろ

おさかなねこです。

つつみ、つむぎ、つづけ、つなげるもの

「繋げていきたい」

ちょうど一年前、突然このことばがぐわっと降ってきて、そしてむねの奥に根を下ろしました。すごい抽象的なのに鮮明な衝動で、母や姉がよく使う表現でなら天啓というものなのかしらん。

私というたったひとりのことだけを考えているとき、こんなことは思いませんでした。かといって、他者のことばかりを考えているときに思い浮かぶはずもなく。

 

でもふと、ふと「私と誰か」のことを思ったときに。

 

何気なく懐かしい曲を口ずさんだとき、いってきますの挨拶、洗濯物をたたむとき、調味料の入れる具合、支えるときの手の位置、トランプゲームのやり方、いつも何気なく書く文章の癖、頬に触れようと手を伸ばすとき。

もうそれを教えてくれた誰かの存在を思い出すことはなくても、あるいはいちいち意識することはなくても、必ず破片がどこかに残っていて。それでいまの私は構成されていて。そう思うとき、私はなんとなく自分を肯定できる。
(あ、待って、調味料の入れる具合はやっぱりわからない。料理から逃げてる人生だからふふふふ、って笑ってる場合じゃないねえなんてこったい!)


くさい言い方になっちゃうけど、私って、今までに出会ってきたあらゆるものたちの破片が繋がれてきた集合体なのかも。そしてその出会ったものたちも、たくさんの存在から繋げられそして繋いできたんだよなあ。辿っていくとすごいことになるよなあ。
そんな考えがぱあっと浮かんで、ああ、繋げていきたい、と。


もう会いたくもないと思ってしまうような人が遠い過去にいたとしても、その人から素敵なひとかけらだけでももらったなら、それを繋げていきたいなって。
もう二度と会えない誰かがいたとしても、時が経つにつれて思い出すことがどんどん減っていっても、あなたが残していったかけらをいつまでもどこまでも運んでいきたいなって。


あなたたちを繋げていきたいんだ。
私のなかに残る素敵な破片を。
できるなら、一緒に繋いでいきたいと心から思えるような人たちと。


"つつみ つむぎ つづけ つなげるもの"
"つなげ つづけて つながるもの"

 

嘘を愛する女」の主題歌を聴きながら、改めて考える今日この頃でした。



きみの笑顔も拗ねた顔もぷにぷにの頬も、わたしを引っ張る腕も、突撃してくるあたまも、丁寧に教えてくれた大富豪のやり方も、伏せたまつげも、さいごに握ってくれた手も、絶対に繋げていくから。大富豪、ちゃんといろんなこどもたちに教えていくから。
 
無力感に襲われる日々の連続だけど、
でも、がんばるよわたし。