ねこのごろごろ

おさかなねこです。

「わたし、殻のそとに、手を伸ばしたの」

「なんかね。殻、なんだ。」

 

一年前のいつか、友人がふとこぼしたことば。

 

「その殻は大きすぎて本人は殻とさえ思ってない。本人が空だと思っているものが実は殻の内側であったような感覚。周りの人間も殆どその殻を認識してないだろうね、それくらい大きな大きな殻。殻のなかには街もあって自然もあって、心地いい家もある。だからそもそも出る必要があるのかすらわからないのだけども…そう、殻のなかにいる感じなんだ。さかななこって。うまくいえないけどさ」

 これはどういうことなのだろうと考えたけれども、自分が殻それも大きすぎる殻のなかにいる、というのが全然感覚としてつかめなくて、首をかしげ、いつかその話題はどこかへと流れていったんだった。

 

 

でもいまならわかるかもしれない。

その友人が伝えたかった「殻」とは違うかもしれないけど。

それでも私、ずっとずっと殻のなかにいたの。

 

いままで自分から手を伸ばさなかった。伸ばそうと思ってもなぜか腕は伸びなかった。ただ相手が伸ばしてくれた手を握り返すだけだった。

受動的な性格というわけではなくて、どちらかといえば自分のしたいことやりたいことに忠実に生きている人間なのだけども、それなのになぜだか「そこにやってきた手のひらを握る」「握り返す」ことはあれど、自ら腕をめいいっぱい伸ばして相手を抱きしめる(求める)ということをしなかったし、できなかった。

 

「いっつも暖かいのにさあ、さかなねこといると、ふとした一瞬にどうしようもなく冷たい感じ…というかこっちが寂しさを感じちゃうときがたまーにあるんだ」

「さかなねこって、はちゃめちゃ受け入れてくれるのに、求めてくれないよね。頼るとはまた違うやつ。やっぱり求められたいじゃん、大切なひとにはさ」

そんなことを話してくれたひとたちが、遠い昔にいた気がする。

なんでどうしてこんな瞬間にすら腕を伸ばさない?求めないの?自分が不思議だった。当事者意識が低いのかしら。私はそういうところが欠落した人間なのかもしれないとぼんやり思いながら、誰かとの待ち合わせ場所へと歩いたのを覚えている。静かな夕方で、厚手のコートに雪がうっすらと積もっていた。

 

 

ある日とつぜん、殻は割れた。

自分でもよくわからなかった。そのことを自分で認識するのに数日かかったくらい、はじめての感覚だった。でも確かに私は、自分から腕をめいいっぱい伸ばした。あの瞬間。めいいっぱい伸ばした手は殻を割った。肺を突き刺すような空気を思いっきり吸い込んで、真白い雪を踏みしめて、私はからだいっぱいに抱きしめた。わたし、殻のそとに、手を伸ばせたの。

 

 

 

あそびあい

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私のお部屋にある、どうしようもない系マンガのひとつ、

「あそびあい」。


ヒロインを生理的に受け付けないひとも、理解できても共感はできないひとも、うんうん頷きながら読むひともいるはず。

 

「俺だけとしてよ」っていう気持ちも、「色んなひととしたいよ」という気持ちも、相手に押し付ればどちらもただの欲でしかなくてどちらが正しい間違ってるなんてことはない。ただ、前者のほうが確実にマジョリティなのだとは思う。だから世のなかの「付き合う」という関係性は、お互いに前者の気持ちを持っているものとして結ばれるのよね。

山下くん、ヒロインに恋した男の子よ。

君が好きになったひとは、恋人という関係性に対して、「君にとっての常識」を持ってない。それでも恋人という関係性をつくっていきたいというならちゃんと相手と向きあわないと。押しつけたら、壊れるだけだよ。

それだけは、生理的に受け付けないひと達にも伝わればいいなと思いましたとさ。

 

ただ、性感染症・望まない妊娠には充分気をつけようね。

あと、あれ。

誰かと付き合ってても他のひと達と致したいというのであれば、同じような考え方のひととお付き合いしたほうがきっと楽だよ。お互い複数人の身体のパートナーを持っていることを承知して仲良く付き合ってるひと達とか。そういうカップルも世の中には少なからずいるから。うん。

ハンカチ、感情を感じ切ること

私は、わりと泣き虫だ。

 

複数人いるところでは基本的に泣かないし、どうしようもない感情が襲ってきたときにはひとり部屋に籠るかひたすらお散歩してるか何も言わずにふらっと旅にでちゃうので、「えっそんな泣くの?」と思われるひとのほうが大多数だとも思う。たぶんね。感動モノとかみるとすぐ涙があふれるけどそういうのは無しでだよ。日常生活のなかでつらかったり苦しかったり、そういう心のときの話。

そんな私だけども、私が泣いても今のこのひと達ならブレずにいてくれるな〜安定感ばっちりだな〜というひとの前だと、よっしゃ泣くぞ!とがんがん勝手に脳みそがゴーサインを出してくる。なのでそういう人達には「話しながら泣くからよろしく」と宣言して話を聴いてもらうことがたまーにある。ふえええんと泣きながら話す。ティッシュの消費量がすごいことになるかハンカチがぐっしょぐしょになる。

 

ハンカチ。

ティッシュだとなんか格好つかないからハンカチ。いや使用頻度的にも圧倒的にティッシュのほうが現実的なんだけど、うん。涙で滲んだ視野にすっと差し出された、そっと頬に押しあててもらったハンカチ。ぐしゃぐしゃだったり結局使わなかったりだってするときもあるけど、いつだって心が緩む。さらに涙があふれてきたりもする。鼻水もとまらない。

まあ鼻水は置いといて、どうしてこんなハンカチ一枚に心が緩むのだろうなあとぼんやり考えていた。

そして最近浮かんだのは、そのハンカチに

「ここで感情を感じ切っていいんだよ。ここで出し切っていいんだよ」

という相手の心が乗せられていたからなのでは?ということ。

 

感情は感じ切ることで消化される。だから感じた感情を抑圧したり見ないふりをしていると、その感情はいつまでも消えず、いつか歪なかたちで心から飛びだす。楽しい嬉しい!という感情はあっという間に過ぎ去るのに、悲しい苦しいという感情からはなかなか抜け出せないのは大抵このせい。感じちゃいけない感情なんてこの世にはないのにね。なぜだか私たちは、こんな感情持ったらいけないと押し殺そうとしたり、見てみぬ振りをしてしまうことがある。

だって、痛いもんね。

現実問題、感情とばかり向き合ってられない場面はあまりにも多い。仕事だったりなんだりかんだり。その瞬間はどうしても感情を鞄につめてフタを閉じていまやるべきことをきっちりこなす必要が出てくる。大人になればなるほどそういう時間が増えていくし、社会で生きていくには必要な能力だよね。

でも同じくらい、ちゃんと後で鞄から感情を取り出して消化することも必要だと私は強く思う。じゃないと鞄は重くなるばかりで抱えてられない重さになるし、必要なものがすぐに出てこなくなるし、見た目も悪いし、、だんだん何がどれだけ入ってるのかすらわからなくなって、最終的には鞄の底が抜ける。ばあんっ。

鞄の奥にずんっと沈み込んではりついた感情は、なかなかに強敵。まずはひとりで出し切ろうとするけど(ひとりで部屋に籠もったり放浪して)、やっぱり無理なときもたまにある。はりついた部分を剥がそうとすると、どうしてもひとりじゃ痛みで力が入らない。くっそぅ。でもこれを放置しておくと精神的に死ぬ。

しかも稀に、奥の奥の奥につめすぎて「本当にそんな感情あったっけ?」と首を傾げてしまうこともある。カラ元気をモノホンの元気と自己暗示をかけている状態。これが一番精神的に最悪な状態を招くのも知ってる。

そんなとき、私は話す。

そして、泣かせてもらう。

私が泣いてもこいつらはブレずにいてくれるって思えるひと達の前で。

 

ハンカチ。

「ここで感情を感じ切っていいんだよ。ここで出し切っていいんだよ」

あのひと達はそんな想いを乗せてあのハンカチを出してくれたんだな。だからあんなに感情を感じ切って出し尽くすことができたんだな。苦しい、悲しい。痛い。痛みを怖れて力の入らない手を、背中を、そっと支えてくれた。根っこに触れるのはとてもとても痛いけれど。

涙はとりあえず出し切った。

顔は、むくんだ。

鞄は、軽い。

 

いつもありがとう。わたし自身も、大切なひと達にとって「安心して感情を感じ切れる場所」であれたらいいな。ハンカチ持ちあるこ。

 

 

※ ハンカチハンカチ言ってるけども、もちろんハンカチだけじゃなくて、頭を撫でてくれたり背中をさすってくれたり優しい眼差しで見守ってくれたり、抱きしめてくれたり、そういうのたっくさんあります。抱きしめられたらもうぽろっぽろに涙こぼれていくよ、わたし。だけどもそういうのって諸々その相手との関係性で限定される行為なので(笑)、どういう関係でもおかしくないしよくある「ハンカチを差しだす」という行為しぼってかきましたとさ。

「いつかここからいなくなる」

「いつかここからいなくなる」
このことばに、暖かい愛を感じるようになったのはいつからだろう。
 
大好きな菜の花が揺れていた小学校の花壇。「あいつがすき!」と叫んだ男子の目線のさき。ああだこうだ言いながら靴をいれた中学校の下駄箱。緑色の瞳をしたネコの横。かじりつくように向かった高校の机。これからどうなるのかともたれかかった予備校の壁。そっと手を繋いだ誰かの隣。
 
もうそこに、私の場所はない。
 
なにかの永遠を信じていた。しかし永遠は全否定され、その事実を受け入れられなくて泣き崩れた日や離れたくないとしがみついた日がどこかにあった。なんににも触れたくないとしゃがみこんだ日も、泣いて泣いて泣き喚いて涙が枯れそしてそのまま沖縄行きの飛行機にとびのった日も、たぶん昔のどこかにあった。
沖縄の海は、静かにきらきらと輝いていた。
 
まなざしをくれた男の子は、素敵なオトナになって私のことなど忘れてるだろう。私の名前が貼られることはもう無いあの下駄箱には、きっと誰かが眠い目を擦りながら革靴をしまっている。緑目のネコが産んだこどもは十数歳になって、私が帰省するたびに出迎えてくれる。あの机には壁には、いまどんな落書きがあるのだろう。あの手は、幸せにいっぱいに、誰かと繋いでいるのだろうか。
 
そして私も。
いつのまにやら、新しいたくさんの体温とくすくす笑いあっていた。
 
その間にもたくさんのさよならがあって、わんわん泣いたりひっそり涙をこぼしたり、だけどもしゃがみこむことはほとんど無くなった。それはきっと上手なお別れとお別れのさきにあるものを知ったから。
永遠なんてなくていい。
なにかとのさよならがあったから、これからあなたとわたしは出会える。
 
新しい体温、新しい椅子、新しい世界を教えてくれたのはいつだって「さよなら」で、精一杯の愛をもって抱きしめてきたからこそ言える「さよなら」だった。
あなたにいつか伝える「さよなら」も、そんなことばでありたいから。
 
いま精一杯の愛をもってあなたと向き合わせてほしい。そしてしかるべきときがきたら、笑顔でこの場所からふみだそう。新しい誰かが気持ちよくこの場所へやってこれるように。
教室がかわるとき、この本を読み終えたとき、誰かの気持ちが変わったとき、死が訪れたとき。あなたとのしかるべきときはいつだろう。
まあきっと、そのときがきたら解るんだろう。
 
花壇の真ん前、男の子の眼差し、放課後の下駄箱、愛しい緑目のネコ、教室のあの机、予備校の隅っこ、誰かの隣。
どれももう私の場所じゃない。でも、どれもいまの私をつくりあげている、とても愛おしいあなたたち。永遠なんてないと分かっていたのに、それでも永遠を願ってしまうような時間をくれた、愛おしいあなたたち。
私もあなたたちにとってそんな存在であれたなら。
 
私はもう、あの場所にいない。
 

いつかここからもいなくなる。

そうしてまた、わたしもあなたも、新しく「出会う」のです。

表現するちからが欲しくて

「言葉にしなくたって想いは伝わる」というけども。

「言葉なんてちっぽけで無力だ」ともきくけども。

それでも言葉にしたい。

だって、肌と肌を触れあわせて伝えることだけに重きをおくには、わたしたちにはあまりにも時間がたりない世界にいるから。伝える相手も限られてしまうから。からだの温もりを、眼差しを、声の体温を、あなたに想いがぜんぶ伝わるまで届けつづけるにはどうしても厳しいときがあるだろうから。

だからきっと、言葉は存在するのでしょう?