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ねこのごろごろ

おさかなねこです。

食べれなかったあのときの話

最近、体重増加がとまりません。

ストレスやらなんやらがかかるとすぐ過食になる私。もともと食べるの好きなうえにそれだからやんなっちゃう。体質的に筋肉も脂肪もつきやすいし、だからといって食べるの我慢すると諸々崩壊する。なので自分が「標準体重よりうえの人生」を歩むことに関してはもう諦めがついてきました。諦めというか、受容みたいなもの。でもその中でも「これより増えたら自己肯定してられない」というラインがあって、今そのあたり。ヒック。

 

でもね、そんな私も過去にたった一度だけ、

「身体が食べることを拒否する」という経験をしたことがあります。

いやもうあのときは自分でもびっくりした。食べることは生きること。すなわち身体が食べることを拒否することは、身体が現実を拒み生きることを拒否していることと同じ。わお。

2ヶ月弱の間ほとんど何も食べれなくて食べても吐いてしまって、その後なんとか半年くらいかけて少しずつ普段通りの食事に戻していったという。2ヶ月で "四捨五入して10kgの数値分" は体重減少したのは本当にびっくりした(元々がものすごぐ太ってたというのもあるけど)。いつもは過食に走るはずの自分がこんなに食べることを拒否している。

そしてそこに喜びを見出しはじめている自分が確かにあの瞬間いた。

どうみても、摂食障害の一歩手前だった。

 

あのね。

あのとき拒食症にならずに済んだのは、生きることを再び肯定できたのは、

あなたたちがいたからだよ。

 

生きることを身体が拒否していたあのときの私を、普通にごはんに誘ってくれたひとたち。あなたは普通に料理を注文して、私はスープだけ注文した。スープだけのくせに殆ど喉を通らなくて、でもあなたはなんも変な顔をせずに「飲めない分はこっちが飲むから安心して」と笑いながらいつも通りのおしゃべりをしてくれた。何度もそうやってごはんに一緒にいってくれたから。遊んでくれたから。

唐突に涙が溢れだして慌てた私を、そのまんま受け入れてくれたあなたたち。たわいもないおしゃべりをしてて私も普通に楽しくいつも通り笑ってて、なのにいきなり涙があふれてしまった私を、あなたは訝しげな目でみるわけでもなく何を聞くわけでもなくただ頭を撫でて抱きしめてくれたから。

 

あなたが「どんなあなたも好きだから」と大きく笑ってくれたから。

 

あのね。あなたたちがいたから、私はいまこうしていられます。

過食で体重増加で心が落ち込むことはたくさんあるけど、でも、食べることをちゃんと楽しめているのは喜べているのは、本当に奇跡だと思う。

 

あのね。ありがとう。

 

ふといろんなことを思い出して、書きたくなりましたとさ。

体重落ちないかなあ。

「自分はHIVに感染してない」と、心の底から言える?

HIV検査?うん、したことあるよ」
 
 
私がこんな発言をしたとき、あなたは私にどんなイメージを抱くのか。
 
(検査行かなきゃいけないほどアブないことしたの?)(へえ、遊んでるんだ?)(そういうこと人に喋って、恥ずかしくないの?)
 
ええわかってる。わかってますとも。殆どの反応はこうだった。医療従事者にもそんな反応されてしまうのだから、今の日本の現状としてはたぶんもうどうしようもないことなんだろう。私のような年齢の女性が性に関連したことを話すのは少なくとも日本では「恥じらいがなく」「遊んでいる」ことになりやすい。好奇の目でばかり見られやすい。それにたぶん「生々しい」。話の本筋から少し外れるけど、私個人の意見としては正直誰がどれだけ遊んでようが自己責任で・二者間の合意の上で・二者間で完結している関係なら第三者がとやかく言うことでも喚くことでも批難されることでもない気がするのだけども、まあそうは思えない人も茶化して楽しみたい人もいるのが当然で(だからあんなにみんなゴシップネタがお好きなんでしょ?)、つまり「遊んでる」というイメージを持たれるような発言をしないほうが変に噂もされないし、楽でしょう。下手に喋らないほうが誤解も受けずに生きていける。
 
それでも私は話す。
ちょっぴり勇気を振り絞って。
 
恥じらいは、向かい合うべきことから逃げることじゃないから。
この生々しさを持ってでしか、あなたに響かないことがあるかもしれないから。
誤解を受けてでも、あなたに伝えたいことがあるから。
だからあなたにも少しだけ、少しでいいから、茶化さずに私の話を聞いてもらえたら嬉しいです。
 
HIVエイズについての正しい知識について〜とかは今回割愛してしまうので、ぶっちゃけよく分かってないよ!という人はこちらのサイト(http://www.hivkensa.com/whatis/)(https://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/400-aids-intro.html)などを一読してからぜひこちらに戻ってきてください。お願いします。
 
 

路面電車に乗り

春の陽気を感じるとまず長崎が浮かぶのもザボン味のカステラ食べたくなるのも、路面電車に乗りたくなるのも花々で満ちた庭園を歩きたくなるのも、坂道の途中でふと振り返った景色があんまりにも鮮やかで暫く立ち尽くしたことを思い出すのも、はじめて長崎に足を踏み入れたのが春だったからなんだろうなあ。

数年前の春、長崎空港から市内への連絡バスに揺られながら、柴咲コウの「invitation」をずっと聴いていたのが懐かしい。春なのに日差しが痛かった。

 

またみんなでこよう

きみなしでもへいき

路面電車に乗り ひたすら揺られてみたら

「過ぎた夏の記憶」に収まる

 

沖縄も同じ。沖縄は、秋冬だね。

 

そこに誰がいたとか何があったとかそういうことはどんどん薄れていってしまうのに、どんどん新しい記憶で溢れかえるのに、もはや思い出そうとしなければ思い出せないのに、なのにあの瞬間、はじめてやってきたときのあの感情だけはいつだって鮮明に唐突に浮かぶ。

はじめてって、絶大だ。

 

あとねあとね、行為としてと感情としてのはじめてって全く別モノだから面白いよね。もちろんほとんどは一緒にやってくるのだけども、でも時々、同じ行為に対して複数回はじめての感情を味わえたりする。

そんなとき、やっぱり思う。

何度も繰り返してきたことを何度でも「はじめて」って感じさせてくれるモノや人や場所って、どれだけ自分にとって大事で大切で素敵な存在なんだろうって。

はじめてって、特別。

繰り返しのなかにあるはじめては、もっともっと絶大。

 

そろそろ沖縄行きたいなあ。

私は私のために

夕方うたた寝をしていたら、遠い昔のことを夢にみた。

目が覚めても布団に潜ったまましばらくぼんやり考え事をしていたらいつの間にやらかなりの時間が経っていて、ベッドから飛び起きパソコンにかじりつきレポートを打ち始め涙目になる私。なんで布団に潜りっぱしちゃったかなあ、いやまあ考え事してたわけだけど、いやでも布団め私を誘惑してきやがってあんなぬくぬく感包まれ続けたくなっちゃうじゃんか、あ。ああ。

 

私は選んだんだ、自分で。あのとき絶対に。

布団に潜ったままでいたことも。遠い昔のことも。

 

---

自分自身で決めた選択肢の先が思い通りじゃなかった理想通りじゃなかったからって、「誰々のせいで」なんて被害者面をしながら生きていきていきたくはない。だってもう充分な判断能力があると世間から評価される年齢だし、わたし(騙された場合は全く別だけどさ)。

しかも時折、「君のため」ということばを振りかざしながら「自分のため」な言動をしてくるひともいる(多くのひとは無意識のうちにやっててもしかすると私もどこかでそんなことしてしまっているかもしれない恐ろしい)。そして理想通りの結末にならないと「君のためにこんなにしたのに」「君のせいで」と「君」を罵り始める。自分で勝手に選んだことなのにさ。

 

私は私のためにあそこにいた。

「誰かのせい」「何かのせい」だと言えばきっとすぐに楽になれただろう。私は悪くないあのひとが悪い。あいつがあんな風に言わなければ、あのひとのためにこんなにしたのに、私は被害者なんです、だってあいつがこう言ったから、わたしは悪くない。あれが、あのひとが…そんな風に罵れたなら、遠い過去もあんなに苦しまずにすんだのかもしれない。

でもそうしていたら私の時計はそこで止まってしまっていただろうなあ、と今でも思う。だってわたし、自ら選んでその道に進んでたんだもの。誰かに無理強いされた訳でも騙されたわけでもなく自分で決めた選択肢だった。私のために、私が選んだことだったんだよ。

 

『誰かのために』は『誰かのせいで』に一瞬で変わってしまう。そんなシーンはもう、お腹いっぱいなんです。私は私のために選んでいまここにいる。私が大切にしたいからあなたを大切にする。あなたのせいにも誰のせいにもしたくない。このさきにある嬉しいことも悲しいことも結末も、全部自分で受けとめる。

だって、私の大切な物語だもの。

 

(あ。レポートは普通に終わりました)

「わたし、殻のそとに、手を伸ばしたの」

「なんかね。殻、なんだ。」

 

一年前のいつか、友人がふとこぼしたことば。

 

「その殻は大きすぎて本人は殻とさえ思ってない。本人が空だと思っているものが実は殻の内側であったような感覚。周りの人間も殆どその殻を認識してないだろうね、それくらい大きな大きな殻。殻のなかには街もあって自然もあって、心地いい家もある。だからそもそも出る必要があるのかすらわからないのだけども…そう、殻のなかにいる感じなんだ。さかななこって。うまくいえないけどさ」

 これはどういうことなのだろうと考えたけれども、自分が殻それも大きすぎる殻のなかにいる、というのが全然感覚としてつかめなくて、首をかしげ、いつかその話題はどこかへと流れていったんだった。

 

 

でもいまならわかるかもしれない。

その友人が伝えたかった「殻」とは違うかもしれないけど。

それでも私、ずっとずっと殻のなかにいたの。

 

いままで自分から手を伸ばさなかった。伸ばそうと思ってもなぜか腕は伸びなかった。ただ相手が伸ばしてくれた手を握り返すだけだった。

受動的な性格というわけではなくて、どちらかといえば自分のしたいことやりたいことに忠実に生きている人間なのだけども、それなのになぜだか「そこにやってきた手のひらを握る」「握り返す」ことはあれど、自ら腕をめいいっぱい伸ばして相手を抱きしめる(求める)ということをしなかったし、できなかった。

 

「いっつも暖かいのにさあ、さかなねこといると、ふとした一瞬にどうしようもなく冷たい感じ…というかこっちが寂しさを感じちゃうときがたまーにあるんだ」

「さかなねこって、はちゃめちゃ受け入れてくれるのに、求めてくれないよね。頼るとはまた違うやつ。やっぱり求められたいじゃん、大切なひとにはさ」

そんなことを話してくれたひとたちが、遠い昔にいた気がする。

なんでどうしてこんな瞬間にすら腕を伸ばさない?求めないの?自分が不思議だった。当事者意識が低いのかしら。私はそういうところが欠落した人間なのかもしれないとぼんやり思いながら、誰かとの待ち合わせ場所へと歩いたのを覚えている。静かな夕方で、厚手のコートに雪がうっすらと積もっていた。

 

 

ある日とつぜん、殻は割れた。

自分でもよくわからなかった。そのことを自分で認識するのに数日かかったくらい、はじめての感覚だった。でも確かに私は、自分から腕をめいいっぱい伸ばした。あの瞬間。めいいっぱい伸ばした手は殻を割った。肺を突き刺すような空気を思いっきり吸い込んで、真白い雪を踏みしめて、私はからだいっぱいに抱きしめた。わたし、殻のそとに、手を伸ばせたの。

 

 

 

あそびあい

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私のお部屋にある、どうしようもない系マンガのひとつ、

「あそびあい」。


ヒロインを生理的に受け付けないひとも、理解できても共感はできないひとも、うんうん頷きながら読むひともいるはず。

 

「俺だけとしてよ」っていう気持ちも、「色んなひととしたいよ」という気持ちも、相手に押し付ればどちらもただの欲でしかなくてどちらが正しい間違ってるなんてことはない。ただ、前者のほうが確実にマジョリティなのだとは思う。だから世のなかの「付き合う」という関係性は、お互いに前者の気持ちを持っているものとして結ばれるのよね。

山下くん、ヒロインに恋した男の子よ。

君が好きになったひとは、恋人という関係性に対して、「君にとっての常識」を持ってない。それでも恋人という関係性をつくっていきたいというならちゃんと相手と向きあわないと。押しつけたら、壊れるだけだよ。

それだけは、生理的に受け付けないひと達にも伝わればいいなと思いましたとさ。

 

ただ、性感染症・望まない妊娠には充分気をつけようね。

あと、あれ。

誰かと付き合ってても他のひと達と致したいというのであれば、同じような考え方のひととお付き合いしたほうがきっと楽だよ。お互い複数人の身体のパートナーを持っていることを承知して仲良く付き合ってるひと達とか。そういうカップルも世の中には少なからずいるから。うん。

ハンカチ、感情を感じ切ること

私は、わりと泣き虫だ。

 

複数人いるところでは基本的に泣かないし、どうしようもない感情が襲ってきたときにはひとり部屋に籠るかひたすらお散歩してるか何も言わずにふらっと旅にでちゃうので、「えっそんな泣くの?」と思われるひとのほうが大多数だとも思う。たぶんね。感動モノとかみるとすぐ涙があふれるけどそういうのは無しでだよ。日常生活のなかでつらかったり苦しかったり、そういう心のときの話。

そんな私だけども、私が泣いても今のこのひと達ならブレずにいてくれるな〜安定感ばっちりだな〜というひとの前だと、よっしゃ泣くぞ!とがんがん勝手に脳みそがゴーサインを出してくる。なのでそういう人達には「話しながら泣くからよろしく」と宣言して話を聴いてもらうことがたまーにある。ふえええんと泣きながら話す。ティッシュの消費量がすごいことになるかハンカチがぐっしょぐしょになる。

 

ハンカチ。

ティッシュだとなんか格好つかないからハンカチ。いや使用頻度的にも圧倒的にティッシュのほうが現実的なんだけど、うん。涙で滲んだ視野にすっと差し出された、そっと頬に押しあててもらったハンカチ。ぐしゃぐしゃだったり結局使わなかったりだってするときもあるけど、いつだって心が緩む。さらに涙があふれてきたりもする。鼻水もとまらない。

まあ鼻水は置いといて、どうしてこんなハンカチ一枚に心が緩むのだろうなあとぼんやり考えていた。

そして最近浮かんだのは、そのハンカチに

「ここで感情を感じ切っていいんだよ。ここで出し切っていいんだよ」

という相手の心が乗せられていたからなのでは?ということ。

 

感情は感じ切ることで消化される。だから感じた感情を抑圧したり見ないふりをしていると、その感情はいつまでも消えず、いつか歪なかたちで心から飛びだす。楽しい嬉しい!という感情はあっという間に過ぎ去るのに、悲しい苦しいという感情からはなかなか抜け出せないのは大抵このせい。感じちゃいけない感情なんてこの世にはないのにね。なぜだか私たちは、こんな感情持ったらいけないと押し殺そうとしたり、見てみぬ振りをしてしまうことがある。

だって、痛いもんね。

現実問題、感情とばかり向き合ってられない場面はあまりにも多い。仕事だったりなんだりかんだり。その瞬間はどうしても感情を鞄につめてフタを閉じていまやるべきことをきっちりこなす必要が出てくる。大人になればなるほどそういう時間が増えていくし、社会で生きていくには必要な能力だよね。

でも同じくらい、ちゃんと後で鞄から感情を取り出して消化することも必要だと私は強く思う。じゃないと鞄は重くなるばかりで抱えてられない重さになるし、必要なものがすぐに出てこなくなるし、見た目も悪いし、、だんだん何がどれだけ入ってるのかすらわからなくなって、最終的には鞄の底が抜ける。ばあんっ。

鞄の奥にずんっと沈み込んではりついた感情は、なかなかに強敵。まずはひとりで出し切ろうとするけど(ひとりで部屋に籠もったり放浪して)、やっぱり無理なときもたまにある。はりついた部分を剥がそうとすると、どうしてもひとりじゃ痛みで力が入らない。くっそぅ。でもこれを放置しておくと精神的に死ぬ。

しかも稀に、奥の奥の奥につめすぎて「本当にそんな感情あったっけ?」と首を傾げてしまうこともある。カラ元気をモノホンの元気と自己暗示をかけている状態。これが一番精神的に最悪な状態を招くのも知ってる。

そんなとき、私は話す。

そして、泣かせてもらう。

私が泣いてもこいつらはブレずにいてくれるって思えるひと達の前で。

 

ハンカチ。

「ここで感情を感じ切っていいんだよ。ここで出し切っていいんだよ」

あのひと達はそんな想いを乗せてあのハンカチを出してくれたんだな。だからあんなに感情を感じ切って出し尽くすことができたんだな。苦しい、悲しい。痛い。痛みを怖れて力の入らない手を、背中を、そっと支えてくれた。根っこに触れるのはとてもとても痛いけれど。

涙はとりあえず出し切った。

顔は、むくんだ。

鞄は、軽い。

 

いつもありがとう。わたし自身も、大切なひと達にとって「安心して感情を感じ切れる場所」であれたらいいな。ハンカチ持ちあるこ。

 

 

※ ハンカチハンカチ言ってるけども、もちろんハンカチだけじゃなくて、頭を撫でてくれたり背中をさすってくれたり優しい眼差しで見守ってくれたり、抱きしめてくれたり、そういうのたっくさんあります。抱きしめられたらもうぽろっぽろに涙こぼれていくよ、わたし。だけどもそういうのって諸々その相手との関係性で限定される行為なので(笑)、どういう関係でもおかしくないしよくある「ハンカチを差しだす」という行為しぼってかきましたとさ。